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第十話 知恵の実は地に落ち

「それでは、エヴェン。私は貴方たちと共に行くことが叶いませんが、武運を祈っています」
「はい。今日までありがとうございました、リリス……先生」


エヴェンは別れ際、最後に一度だけリリスを先生と呼んだ。

その言葉に、リリスは穏やかな笑みを浮かべて頷く。

「ありがとう、エヴェン」
「先生、それでは行ってきます」
「この学校に戻る事が出来たら、また魔法を教えてください」


続いてキンダーとジェシカとほかの生徒達に別れを告げ、リリスは最後にミラを見た。

「リースが先に行ってTabaiと話をつけているはずです。貴女は皆の案内をお願いしますね、ミラ」
「……はい」

十四人はリリスが開いたエスタリアスリップ――転移の門を通って、リースが待つ第三エスタリアへと向かう。

騒がしいとはとても言えなかったが、それでも人の気配があった学校が、急に静かになったような気がした。

これを寂しいと形容するのかと思い、リリスは苦笑する。

数年前までは生まれ育った城内でも信頼できる人間はおらず、ずっと孤独だった。

戦場から戻ってくる兄だけが、心の支えだった。

ふと――黒髪の青年、エヴェンの顔が頭に浮かぶ。

「少し、似てきたかしら?」


今更ながらにそう思い、そんなことを考える自分を笑ってしまう。

Tabaiの凶行から守るために傍に置いたが、もしかしたら自分は兄の面影をエヴェンに求めていたのかも……そんな自分の思考がなんとも乙女なような気がして、首を振ってその思考を頭から追い出した。

それはシヤウンにも、そしてエヴェンにも失礼だったからだ。

生徒が居なくなって気が緩んだ……そう思うことにする。

「さて――」


そのまま、リリスは人気の無い欠片エリアを歩き出した。

その景色を、今日まで在った喜びの記憶を、今までの人生で一番楽しかった時間を、思い出すように。

はじめは何もなかった。

七つのエスタリアの周囲を浮遊する大地の残骸。エスタリアという世界から零れ落ちた破片――それが欠片エリアの正体。

暗闇の空間を浮遊し、大きな欠片には水源や緑の種子が残り、こうやって人が生活することもできる。

五年前。

カイオス王国を出たリリスがモンに案内されたのは、その欠片エリアの中でも大きな部類に入る大地。

緑豊かで水源もあり、エスタリアの重力にひかれて浮遊することで朝と夜もある。

時間の感覚が少し違うが、それ以外は今まで暮らしていたエスタリアと何ら変わらない環境のこの場所は、リリスにとって居心地がよかった。

悪意を持つ人間が居ない。

邪魔をする人間が居ない。

敵対する人間が居ない。

話し相手がリースとミラ、そして時折訪ねてくるモンだけというのが問題だったが、それだけだ。

ここでリリスは魔法を学び、自分がどういう存在なのかを理解した。

ゆっくりと、地面の感触を確かめるように歩く。

靴の裏に、落ち葉の感触。

顔を上げると、葉が落ちて寒々しい姿を晒す木々の姿があった。

季節が変わる。冷たい季節が来る。

もうそんな時期なのかと、リリスは少し感傷的な気分になった。

そして、ちょうど傍に在った大岩に腰を下ろす。

黒いドレスが汚れるかと思ったが、今更だと思いなおした。

生徒達は全員この欠片エリアを去り、今はただ一人。

いつからだろうか。

静かなこの場所を気に入っていたのに、暖かな時間を悪くないと思えるようになったのは。

カイオス城の喧騒はもう、遠い昔。

今はもう、自分が知った魔法の知識を才能ある生徒達に伝える日々が日常になり……その子供たちも旅立った。

リリスは知っていた。この日が来ることを。

生徒達の旅立ちと、この日々の終わり。

ガサ、と。

そこまで考えて、背後から足音。

この日が来ることは決まっていたのだ。

あの日。

五年前。

リリスが魔法の力を使い世界の真理に触れ、人間という種を逸脱した能力を得、そして最良の選択肢が何なのかを知る術。

そしてあの日。

カイオス王国の内乱の始まりで――リリスは最良ではなく最悪の選択をした。

その結果が、今日なのだと。

「遅かったですね、ミラ。もう少し早く戻ってくると思っていました」
「……先生は何でもお見通しなのですね」


そんなことはない、と。

振り返らないままリリスは首を横に振った。

風が吹く。

濡れ羽色の黒髪が大きく揺れ、まるでカラスの翼のように広がる。

突然現れたミラは、そんなリリスの様子に驚くことなく……むしろ知られていたことに安堵した表情を浮かべ、ゆっくりと息を吐いた。

「そうでもないわ。この結末はわかっていたけれど、結局回避する事が出来なかった」
「……それでいいのですか?
私は……」
「『蒼の魔女』への復讐を果たすために、戻ってきた」
「その通りです。父と母を奪い、カイオス王国を混乱させた元凶――貴女が起こしたカイオスの内乱はいまだに続き、そして今日、カイオス王国は崩壊する」
「そうね」


まるで他人事のように呟いて、リリスは天を仰いだ。

どこまでも蒼。

太陽の光があって尚、薄暗い空。

今日は天気が悪かった。

ただそれだけが、リリスは心残りだった。

「けれどそれは、貴女の意志?」
「え?」
「ミラという人間の意志かしら?」


そこでようやく、リリスは振り返った。

じっと、寒々しい曇り空よりもなお深い、蒼の瞳でミラのオッドアイを見据える。

ミラはまるで心の中まで見透かされそうな気がして、すぐに目を逸らした。

純潔を示すような白いドレスに、日焼けしていない白い肌。

クリーム色の髪は風で乱され、スカートの裾がはためいている。

その手には、小さな――人の命を奪うというにはあまりにも小さな短剣が一本、握られている。

特別な力は感じない。

本当に、ただの鉄製の短剣であることをリリスは一目で見抜いた。

「貴女は純粋ね」
「……」
「そんなに小さなナイフでは、人の命は奪えない――」


そう言って右手を胸の前へ……意図して集中するまでもなく、リリスの体からわずかに漏れた蒼い魔力が手の平に集い、一瞬で短剣の輪郭を形どった。

握る。

それだけで、その短剣はこの世界に存在を固定させる。

ミラには見覚えがあった。

それは、カイオスの内乱の際にリリスが常に帯びていた――父王殺しの短剣。

ミラの手にあるソレよりも一回りは大きい刃は確かに致命傷を与える事が出来るだろうというのは、戦いに疎いミラでも簡単に想像できた。

「顔色が悪いわ。それに呼吸も荒い――乱れた呼吸を元に戻せていない。集中力も書いている。視線が安定しないのは……」


なにがミラを支えているのか。

今にも膝を折りそうなミラだが、その両手は短剣を握ったまま。

力を籠めすぎて、手が震えてしまっている。

だというのに、息を乱しながらリリスを見据える瞳は、徐々に力を――狂気を帯びていく。

……ああ、と。

緊張するミラの姿に、リリスは脱力した。

これが、失敗した自分の責任――末路なのだと。

「もっと、貴女と話すべきだったのでしょうね」
「え?」
「養子として迎え、この場所へ導き――けれど全部をリースに任せてしまった。ごめんなさい」


自分に母親の資格があるとは思っていない。

けれど養子として受け入れたからには、その義務を――いや、大切な娘と話す時間を設けるべきだったのだと、今更ながらに悟った。

何故なら、ここまでミラが追い詰められていて、その理由が分かってしまうのに……けれどどうすればいいのか分からなかったからだ。

普通の家族なら、人を殺そうとする娘を説得するのか、それとも娘の為と思って受け入れるのか――けれどリリスにはその両方すら分からない。

ただ。

これが、自分の蒔いた種であり、そしてその種が実った結果なのだとしか理解できない。

そして、その結果の末に自分がどう選択するべきなのか……分からなかった。

分からなかったから、こうやって話し、決めようと思っていた。

殺されるのか。

殺すのか。

それとも――。

「どう、していいか……分からないんです」
「…………」
「せっ、先生は……私の養母で、先生で、大切な人と出会わせてくれて……」


とつとつと、ミラが口を開き、感情をこぼしていく。

リリスは口を開かず、その告白に耳を傾けたまま。

ただ、彼女が何に迷い、戸惑い、苦しんでいるのか――おおよその見当はついていた。

こういう時、魔女の能力――世界の真理に触れ、思考が勝手に最適の選択肢を選ぶというのは、煩わしいと思ってしまう。

彼女の言葉の意味も、どうすればいいのかも、ミラがその全部を吐き出す前に理解してしまうから。

だから黙って、耳を傾ける。

せめて、ミラの全部を思考ではなく言葉で受け止めるために。

様子がおかしいとは思ったが、それがミラの本心だとも分かったからだ。

「でも、でもっ――先生が、私のお母様とお父様を殺したっ。先生が――起こした戦争で、お母様は――っ」


ああ、と。

そうだ。そうだった。

忘れていたわけではない。

けれどリリスは、自分の目的だけを見ていて、前だけを見ていて、未来を生徒たちに託して――過去は置き去りにしてしまっていた自分に、気付く。

そしてミラは、未来に進もうとして、けれど過去も大切にしていた。

リースが言っていたことを思い出す。

ミラは、この学校での生活を楽しんでいると。きっとそれは、本当だったのだ。

けれど過去を……本当の家族の記憶も忘れないようにずっと想い、リリスを憎み、それと同じだけリース達と一緒の時間を過ごしていたのだ……。

それはリリスが思っている、今感じている感情以上に歪で、だからこそ追い詰めてしまったのだと今更ながらに理解する。

「きょう、ここで……貴女が本当に私を憎んでいるなら、殺されてもいいと思っていた」


でも、と。

リリスは持っていた短剣を――ミラではなく自分に向けた。

その切っ先が、首筋に触れる。

刃とはこんなにも冷たいのかと……場違いにも、そう思う。

「ありがとう、ミラ。貴女は優しい子ね」


その冷たい刃を手に持っていても、リリスには向けていない。

些細な無意識の優しさに、リリスは嬉しくなって微笑んだ。

最後は、笑顔がいい。

今生の別れが泣き顔でも憎悪でもないなら、少しだけ救われるような気がしたから。

殺されるのか。

殺すのか。

話して決めようと思っていた。

だから、リリスは選択した。

娘に手を汚させず、そしてこれ以上、自分の存在が周囲へ悪影響を及ぼさないように。

――首筋にあてた刃を引く。

ミラが悲鳴を上げた。

血液と共に命が零れ落ちていく体が、その悲しみを受け止める。

――泣かなくていい。


魂は巡る。

だからきっと、またどこかで出逢える――その時は、その時こそ、私は貴女にちゃんと向き合える人間になれるだろうか。

最後の思考は、世界を憂うのでも、過去を嘆くのでもなく。

ただ一人の娘を想いながら。





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