――不思議な老人は『魔女』に告げた。
歴史に干渉するなと。
ならばきっと、シヤウン王子の死は歴史で定められた……運命だったのかもしれない。
「お父様!」
その日の朝、目を覚まして身だしなみを整えるなり、リリスはカイオス王がいる玉座の間へと向かい、挨拶もせずそう声を荒げた。
長い濡れ羽色の髪と空色のスカートの裾を乱しながらの登場に、すでに玉座の間に集まっていた貴族たちは失笑し、そんな姿を見せるリリスへ憐みの視線を向ける。
玉座へ続く赤絨毯に沿って並ぶ、十数人からなる老齢の貴族たち。
この場にいる全員が知っているのだ。
リリスの兄であり、この国の第一王子シヤウンの死。
そして、その表情から兄の死にこの貴族達が関わっているのだと理解するのに、時間は必要なかった。
思考が灼熱する。
同時に、心が今までにないほど冷たく沈んでいくのが分かった……。
慌てるリリスを一瞥する王の視線に動揺はない。
揺らぎのない冷徹な瞳。
リリスの視線が鋭く魂を貫くような瞳なら、王の瞳は魂を凍らせる冷たさを宿していた。
黒髪に白が混じり始めた王。
頂く王冠は宝石が鏤められた意匠細かな、カイオス王国創立時から王に受け継がれ続けた国宝。
若いころはシヤウン以上の勇名を戦場に轟かせ、無双の肩書きを得た猛将……だった。
それも、昔の話。
戦場に出なくなっただけではない。
玉座に座っているだけで『金を稼げる』と知った王は、その武勇を捨てた。
今では痩せ衰え、丸太のようだった腕は枯れ枝のごとく細くなり、頬が落ち窪み、以前の勇名を示すのはその眼力のみとなってしまっている。
「なんだその姿は。それが王族の姿か、リリス」
「……お父様。お兄様が戦死したと聞きました」
「ふん――そう、伝令が来たな」
リリスは、しっかりとした造りであるはずの石床が揺らぎ、崩れるような錯覚を覚えた。
「おやおや。お姫様はずいぶんと動揺されているご様子。どれ、わたくしがお部屋までお連れいたしましょう」
「いやいや。ここはわたくしが」
動揺するリリスを憐み、あるいはその美貌に手を伸ばすために貴族たちが心のこもらない言葉を紡ぐ。
吐き気がした。
リリスは動揺し、顔を青くしながら、それでもしっかりと自分の両足で立つ。
胸を張り、前を見た。
いまだ玉座に座したまま、立ち上がりも心配の言葉も向けない王へ視線を向ける。
「お父様、聞けば兄にはわずかな近衛しか付けなかったと……なぜ……」
「戦争は長引き、いまだ終わりを見せない。ならば、王族だからと護衛を増やすより、最前線に兵を集中させたほうが、効率が良い――違うか?」
ゾワリと、肌が泡立つのをリリスは自覚した。
シヤウンは戦争を終わらせようとしていた。
個人の力が影響するほど戦争は小さなものではなかったが、シヤウンと志を共にする仲間が集まっていたのも事実だ。
それが疎ましくなった。
戦争を終わらせるなんて夢想が現実になるとは王も、貴族たちも思っていなかったが、それに同調する者が現れ、集まるというのは邪魔だった。
世界の真理、裏、普通なら気付かないことが頭の中に流れ込んでくる。
「終わりが見えないなら停戦すべきでした。富国に努めれば、民は潤います」
「シヤウンと同じようなことを――戦争は続けてこそ意味がある。途中で止めても、勝っても負けてもダメなのだ。戦争が続くほど武器が売れ、薬が高値になる。その金が遺族に渡り、国の経済が回る――それが分からぬのか、リリス」
眩暈がした。
視界が定まらない。
ゆっくりと、まるで水中から世界を見ているかのように、目に映る光景に霞が掛かった。
世界が蒼に染まり、その全部が停まったような錯覚。
そう、錯覚だ。
錯覚なのに――リリスはただ一人、その蒼い世界の中でまっすぐに立っている事が出来ず、一歩、よろめく。
違う。
そうではない。
――兵士になる男が居なくなれば、次は女子供が兵士になる。
そして近い将来、国から人間が居なくなる……それすら理解できないほど、王は、父は、耄碌してしまったのかと。
リリスはため息をつき、泣きそうな気持になった……兄が死に、そして、ここまで王が間違ってしまい、それを正す側近が誰もいないことに。
それでも、父を信じていたかった自分に。
「そこまでじゃ、リリス」
すぐそばで、声がした。
聞き覚えのある声は、先日、突然リリスの部屋に現れたモンと名乗った老人だ。
あの時と同じぼろぼろのローブにおとぎ話で語られる魔法使いが被るような大きな三角帽子。
右手には見覚えのある古びたランタンが握られており、左手は長く伸びた髭をゆっくりと梳いている。
蒼に染まりつつある世界に、ランタンの明かりがリリスの周囲の色を蘇らせていた。
「忠告したぞ。歴史に干渉するなと」
「ええ」
「今のお前が歴史に干渉すれば、この第三エスタリアに深刻な影響を及ぼすことになる」
「そう」
「……お前だけではない。この国だけではない。大地に、星に、影響が出る」
「……」
リリスは大きく、深く、息を吐いた。
気持ちを落ち着けるためではない。
モンの、この魔法使いの言葉を最後まで聞く……我慢をするためだ。
「お前の父。強欲なる王にはまだ生きてもらわねばならぬ――あの魂には、まだ価値がある」
「それで?」
「儂は提灯者のモン。この大地、星を安定させるために魂を集める者――カイオスの王の魂は、まだ集める時に非ず」
「だから?」
それは、自分でも驚くほど冷淡で、感情のこもっていない声だった。
自分はこんな声を出せたのかと――水中のように揺らぐ世界で、リリスはクツ、とくぐもった笑い声を出した。
「わかりません。わからない。わからないわ――カイオス王、モン」
世界が動き出す。
揺らぎが消え、動きを取り戻した空気がリリスの肌を撫でた。
「リリス様。そのような物騒なものをどこから!?」
貴族の一人が、声を荒げた。
そこで、気付く。
先ほどまで持っていなかった短剣を、リリスは握っていた。
まだ作りかけ――その刀身は半ばまでしかない。
けれど、リリスの視線の先で、短剣が徐々に形を整えていく。
それは、先ほどまでリリスの周囲にあった蒼い揺らぎ――それが集まり、形を成しているのだ。
まだ僅かに残る蒼が、リリスの手の中に集まっていく。
貴族たちは、それが見えていない――ただ、武器を持つリリスを糾弾するだけ。
リリスはそんな貴族達から視線を外し、手元を見た。
飾り気のない、武骨な短剣。
もちろんそれは、リリスの持ち物ではない――が、不思議なほどに握りやすい。
まるで何年も使い込んだように、その短剣はリリスの手に馴染んでいた。
「王よ。我が国は、ここまで狂っていたのですね」
だが今は、そんなことはどうでもいい。
やるべきことは決まっていた。
「何を言っている?」
「自分の息子を殺し、その罪を敵国に擦り付けてまで兵を鼓舞しなければ戦線を維持できないほど、この国は弱ってしまっていたのですね」
「……リリス。何を言っている。そのような話、誰から――」
頭に入り込んでくる。
貴族たちの下らない思考が。無意味な言い訳が。
金を得るために戦火を長引かせ、しかしついに勝ちの目が完全に消えてしまったのだ。
当然だ。
貴族が、王が、国の頭脳がこの程度なのだ。
……戦争を長引かせて富を得るどころか、隣国に敗北してカイオスという国はこの大地から消え失せる未来が近づいているのだ。
なら。
「その程度の王なら、もう必要ないでしょう」
当然だ。
国を守れない王にどれほどの価値がある。
民どころか息子すら犠牲にする王に、いくらの価値もない。
不思議と、躊躇いはなかった。
それどころか、どうして今まで行動を起こさなかったのだろうと、自分自身に向けて疑問を抱いてしまうほど。
リリスは軽い足取りで玉座に向かう。
暗い美貌を持つリリスが短剣を片手に歩み寄る光景を見て、ようやく王は自分が置かれている状況に気付いた。
娘だから。
血を分けた肉親だから。
――息子を犠牲にした男は、自分が犠牲になるとは思いもしていなかった。
「まて、リリス!?」
「なぜ?」
リリスは歩みを止めないまま、問うた。
王は答える事が出来ない。
答える言葉を持たない。
なぜなら、娘を説得するだけの価値を、自分に見出せないから。
リリスは王を必要ないと断じた。
そして自分はこの国の王でしかなく――息子を殺した自分が父親という枠から外れている事だけは自覚していた。
だから、リリスは止まらない。
「お止めなさい、リリス様!
王よ、お逃げを!」
貴族の一人が声を荒げた。
……それだけだ。
王の御前だからと武装していない貴族たちは、短剣一本しか持たないリリスにすら近寄れない。
その程度なのだ。この国は。
口だけが達者な……腐った肉の掃き溜め。
リリスは冷たい美貌はそのままに、口元だけを僅かに緩めた。
「さようなら、カイオス王」
貴族たちは、見た。
その光景を。その悪夢を。
リリスが短剣を無造作に横に払った。
剣技など習っていない、素人の動きだ。
だが――その腕に揺らめく『蒼』があった。
陽炎のようにゆらめく、最初は目の錯覚かと思った――影や闇よりもなお暗い、蒼。
まるで光を、命を飲み込んでしまいそうな、異質。
あり得るはずのない、色。
その色が、王を飲み込んでいく。煌びやかな衣装をまとった王が、暗い色に飲み込まれていく。
――それは、命を飲み込む闇。
王の顔色が、瞳の光が、意思が、声が……力を無くしていく。
誰かがその光景を見て悪魔だ、魔女だと呟き――その声に背中を押されるようにして、リリスは短剣をゆっくりと振り上げ……勢いよく振り下ろした。
そして、リリスは父殺しの汚名と、カイオス王国の実権を得た。
けれど、凶行による実権の簒奪である。
納得したのはごく一部でしかなく、この凶事の場を逃れた貴族たちはリリスを反逆者として弾劾し、私兵を起こす。
それに対してリリスは、正当な王の後継者として光の血脈であるtabaiを王に据え、兵を起こした貴族達こそが新しいカイオスの王に刃を向ける反逆者であると国中に知らしめた。
これが、王殺しの凶事からたった一か月の間に起き、そして終わりを告げる……カイオス王国内の内乱、『蒼の魔女』の初陣の始まりである。
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