一人の少女が、息を切らしながら走っていた。
深い森の中。太陽の光が緑葉を透いて進む道を照らし、濃い緑の香りが僅かだが疲労を忘れさせてくれる。
運動に慣れていないのだろう。
必死に走っていてもその足は遅く、走り方はぎこちない。
今にも長い水色のスカートに足を引っかけてしまいそうな危うさがあった。
乱れていた呼吸は千々に途切れ、ついにその足が止まる。
……振り返ると、一緒に走っていたはずの人物が居なくなっていた。
そのことに気付いて……待っている間に乱れた呼吸を整えようと膝に手を付いたが、うまくいかない。
額から流れる汗が黄玉を溶かしたような亜麻色の髪を肌に張り付かせ、着ている青のワンピースを湿らせる。
深呼吸をしようとしては噎せ、それを数回繰り返していると視界に大樹が映る。
迷うことなく、少女はそちらの方へゆっくりと歩み寄り、身体を休めるためにその陰に座り込んだ。
すぐに全身から力を抜き、背中を大樹に預ける。
今までよりもずっと濃い、緑の香り。
慣れ親しんだ自然の香りが、少女の気持ちと呼吸を落ち着かせた。
「遅いわ、――」
そんな少女から遅れること数分。彼女の後を追っていた少年が追い付いて、勢いよく隣に座った。
まだ幼さが残る顔立ちをした少年だ。
ドスン、という音。
そしてそのまま、遠慮なく少女の肩にその頭を預けてくる。
馴れ馴れしいと少女は心の中で呟いて、汗に濡れた頬を膨らませた。
少女と同じように走ったからか、少年の額は汗に濡れていて、お気に入りのワンピースに少年の汗がしみ込んでくるのが感じられる。
「――? もう」
名前を呼んでも反応しない少年に小さく悪態を吐いて、けれど押し退けることもしない。
なんとなく、自分も疲れていたからとか、そんな理由で。
……目を閉じて、深呼吸。現状を整理するために、呼吸を整えてから目を開けた。
目の前に、手をかざす。
小さな手だ。
まだ子供の、何も掴めない小さくてひ弱な手。細い腕に肉付きの乏しい体。
背にある大樹に身体だけじゃなく頭も預けると、頬を伝った汗が首筋へと流れた。
少しくすぐったくて身じろぎをしてしまう。
次いで、優しく吹いた風が肌をくすぐり、その涼しさに口元を緩めながらゆっくりと服の袖で額の汗を拭った。
座った時に広がった青いワンピースの裾が、草原の緑に映える。
白い肌に、青い服。木漏れ日の光を吸って美しく輝く亜麻色の髪。
涼しかった風が、汗に濡れた体から体温を奪っていく。
肌寒さと、肩に感じる少年の重み。
走った高揚はすでに消えていた。
まるで眠っているかのように動かない少年が気になってその顔を覗き込むと、何が面白いのか、楽しそうに綻んでいる。
少女は、こっちは走って疲れているのに、と心の中で悪態を吐いた。
「あ……」
そのままズルリと滑るように少年の体が傾くと、少女の膝の上に落ちる。
……そこで、気付いた。その少年の背に、一本のナイフが刺さっていることに。
それに気づいて、服に広がり地面にまで垂れた血の量を知り、そしてもう手遅れであることも悟って……少女は表情を曇らせながら、何も言わずに少年の頭を撫でた。
短い髪を手櫛で梳くようにゆっくりと、優しく。何度も、何度も。
その少年の痛みが、少しでも和らぐようにと、願いを込めて。
その背にあるのはそれほど大きくない、けれど子供にとっては十分に致命の一撃を与える事が出来る幅の広い短剣だ。
少女はそれを抜くことができない。
抜けば出血が激しくなる――それは少年の寿命を縮めることになると理解していた。
たとえそれが、ほんの数分程度でしかない延命だとしても。
……空を見上げると、緑葉の隙間から青空が覗き……いつからか、灰色に濁った雲が空の青を隠すようになっていた。
実際には、空が覆われているのはほんの一部で、そして、それが本物の雲ではないというのが見て取れる。
空を隠す灰色が上るのは、大地に点在する人の住む街がある場所。
そこに存在する『工場』から上る大気を汚染する煙。
ここ十数年で加速度的に発達した製鉄技術――その悪い影響が、空を曇らせているのだ。
産業の革命。
絹織物の生産過程による様々な技術革新と、鉄鋼業の成長。
そして何より、蒸気機関の開発によって交通技術が加速度的に成長――進化した結果。
世界が変わった。
生まれ変わった。
作り変わった。
人々の生活は日に日に便利になり、仕事が溢れて街は活気に満ち満ちて、誰もが明日に希望を抱く。
希望は明るい未来だ。
喜びに満ちた明日だ。
――だからこそ、人々は足元から目を背けているのだと分かってしまう。
周囲を見ないようにする。
前だけを見て希望を謳歌する。
あれほど綺麗だった街はゴミが増え、美しかった自然は痩せ衰え、そして、空は灰色に濁っている。
それらを、生活が豊かになるための犠牲だと、人々は割り切った。
自然が穢されていく、大地が死んでいく、大気が腐っていく。
それでも人は利便性を追い求める。
今までだって十分に生活できていたはずなのに、それ以上を追い求めてしまう。
一度『楽』を知った人間は、今以上の楽を求めて行動してしまう。
それが何を意味するのか理解できているはずなのに、それから目を背けて――。
十数年前には昼間でも見る事が出来た空に浮かぶ太陽や月とは異なる『六つの星』は、今はもう街の近くではほとんど見る事が出来ない。
まだ産業革命の波に呑まれていない田舎の方で、何とか見る事が出来る程度。
風が、吹いた。
長い亜麻色の髪が、ワンピースのスカートが、風に吹かれて大きく揺れた。
髪は虚空に広がって、まるで天使の羽を連想させる。……そんな、少年の言葉を思い出した。
特別に仲が良かったとは思わないけれど、それでもきっと――短い人生の中で唯一、心の底から信頼出来た人間だ。
そんな少年が選んだ白い肌に映えると言って笑っていた青いワンピース。明るい色合いの体が一層輝かせる黄玉を溶かしたような亜麻色の髪……それはどこか神聖で……恐ろしいほど美しいのだそうだ。
詩人だな、と。
少女は膝の上で眠るように意識を失っている少年を、度々、そう称していた。
それをからかわれたと思って拗ねていた少年の表情を思い出す。
本心だったが――果たして、少女の本心は少年に届いていたのだろうか。
少年の頭を撫でながらそう自問し、苦笑する。
しばらくそうやって気持ちを落ち着けながら……もしこの時代でなければ、自分達はもう少し長生きできただろうかと思う。
革命によって失われた自然、土地を求めて人は人と争いあう。
残るのは戦火と悲鳴。
そして、弱者として消えていく自分達……。
視線を下に向ける。
膝の上で眠るように動かない少年の体温が失われていくのが分かった。
ナイフが刺さった場所から血が零れ落ち、同時に命も零れ落ちていく。
どうしたらいいか分からなくて、その手を握る。
強く、痛みを感じるくらい。
けれど少年は反応を返さない――ああ、と。理解した。
「目を開けて」
反応はない。その目は、もう二度と開かない。
ああ、この人もまた、自分を置いて逝ってしまったのだと理解した。
大樹に背を預けたまま、大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
自然の青い香りと汗の匂い、それを塗りつぶす濃い血の臭いに顔をしかめる。
くしゃりと、自分でも分かるくらい表情が歪む。
涙は出ない。
また置いて逝かれたことが少し悲しくて、最後まで一緒に居る事が出来なかったことが凄く悲しい。
「でも、もう少し……だから」
ゆっくりと少年の頭を地面におろして立ち上がると、すでに命が失われ、魂が宿っていない肉体を持ち上げる。
自分と同じくらい細い腕を肩に担いで、立ち上がらせた。
魂無き肉体を引きずるように、前へ。
疲れていたけど、もうそんな事はどうでもよかった。
目的の場所はあと少し。目前。
歩いていると、すぐに見えてきた。
さあ――行こう。
初めて出会った場所。
出逢えた場所に。
緑に囲まれた、広く、そして深い湖。
今よりもっと子供の頃、一緒に遊んだことを思い出すと、少女は少年を失ってとても悲しいはずなのに、必死に表情を綻ばせた。
最後は、笑顔が良い。
楽しかったと。
嬉しかったと。
今までの人生が輝かしいものだったと誇るように。
少年がそうしたように、少女も笑みを浮かべて湖へと足を踏み入れた。
「いつか、また……ね、――」
皮のブーツの中に水が入り込んで靴下を濡らし、それが少しキモチワルイ。
けれどすぐにその冷たさは気にならなくなって、膝、太もも、下半身――そして、肩まで浸かる。
躊躇いはなかった。
そして、少女は最後まで一緒にいてくれた少年と共に、湖に沈んで消えた。
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