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第九話 憎悪の花

授業が終わり、リリスが学長室へ戻ると、豪奢な造りの机の上にモンが届けてきた一枚の手紙が置かれていた。

この欠片エリアに立ち寄れる人間は限られ、そしてリリスに関わろうとするのはモンというリリスに魔法の存在を教えた存在だけなのだから、覚えのない手紙が誰によって届けられたのか……考えるまでもないことだ。

封は切られておらず、蝋で止められたそこにはカイオス王国の紋章が刻まれている。

それは、彼女が五年前に手放した――見捨てた国の紋章。

この封を使うことができるのはただ一人……リリスが暗愚と見限ったTabaiだけだった。

そのTabaiからの手紙を無感情な瞳で眺めながら――リリスは右手を無造作に開くと、そこに小さなペーパーナイフが握られる。

蒼い刀身を持つナイフで封を切り、中身に目を通す――と。

リリスの視線の先。

そこでは、いつものように補習で特別訓練をしている黒髪の男子生徒、エヴェンの姿。

あれから三年。

この学校で魔法を学ぶエヴェンはいまだに魔力を感じる事を苦手としていた。

才能がないわけではないとリリスは思う。

むしろ、多量のリリスの魔力を宿したその器は、生徒たちの中で最も優れているのではないだろうかとすら思う。

エヴェンは目を閉じて集中し、その体の芯に染み付きつつある蒼の魔力を感じ取ろうとしていた。

「大丈夫ですか、エヴェン」


リリスの一言で、静かな時間は終わりを告げた。

エヴェンが深呼吸をしながら目を開けると、その視界に見慣れた学長室が映る。

そして、年季の入った木造の椅子に座る、黒髪黒衣の女性の姿。

その目はエヴェンではなく手の中に在る手紙に向いており、いつもは柔和な笑みを浮かべている口元が若干強張っている……ようにエヴェンには見えた。

「あまりよくない話ですか?」
「そうね」


エヴェンが手紙の内容を予想して聞くと、リリスはあっさりと頷いた。

その視線が、まっすぐにエヴェンを捉える。

目と目が合う。

視線が重なる。

まるで、そのまま頭の奥、心の奥まで覗き込まれそうだと――エヴェンは体の奥にあるリリスの魔力がざわつくのを感じた。

今、エヴェンが座っているのは、体重を預けるとどこまでも沈んでしまいそうなくらい柔らかなソファ。

その内心を気付かれないように身じろぎをすると、ソファが柔らかすぎて体勢を崩してしまった。

「もうあまり時間はないわ――もうすぐ、カイオス王国で新しい内乱が起きる。私が起こしたそれよりも、もっと大きくて……もっと残酷な」
「はい」


手紙に書かれているのはTabaiが助けを求める声。

五年前、完全に滅ぼせていなかった前国王――リリスの父親側に付いた貴族たちが、また勢力を取り戻したという内容だ。

三年前から度々送られてきていた助けを求める手紙。

だがリリスは、その願いを断っていた。

五年前、リリスが関わったことで第三エスタリアの歴史は大きく変わった。

本来なら死ぬはずのなかったリリスの父である前カイオス王の崩御による混乱、大規模な内乱。

無辜の民を巻き込んだ内乱はカイオス王国だけでなく第三エスタリア全土に爪痕を残し、その混乱はいまだに続いている。

その新しい混乱が、いまリリスの手元にある手紙。

新しい反乱軍の長が持つ剣の切っ先が、ついにカイオス王国、その王の首元まで迫っているという事。

その勢力は以前よりも強大で、そして油断し、驕り、民の信頼を無くしたカイオス王国は以前よりも弱体化してしまっているという。

まるでエヴェンの耳ではなく心に語り掛けるように、リリスが言葉を紡ぐ。

実際、その言葉はエヴェンの頭ではなくもっと深い――精神ともいうべき場所に入り込み、刻み込まれるかのようだった。

エヴェンはしばらく口を閉じて気持ちを落ち着けると、今度は自分から、リリスの目を見返す。

「今まで、ありがとうございます」
「気にしなくていいわ。大切な甥だもの」


リリスはそう言って、虚空に手を伸ばす。

その先には先ほどまでなかった白い陶器のカップが。

中には暖かな紅茶が注がれている。

同時に、エヴェンの前にある机の上にも同じ紅茶が置かれていた。

何度見ても、凄いというよりも不思議な魔法だとエヴェンは思う。

無から有を生み出す。

虚空に『思い通りの物を顕現させる』。

明らかに個人が有するには異常な力。

エヴェン達が先生と慕う、リリスがどのエスタリアにも属さない欠片エリアに隠遁した理由。

「申し訳ないのはこちらの方よ。貴方の血を利用している――」
「構いませんよ。俺は身の安全を、先生は自分の目的のため。俺が今日まで生きる事が出来たのは先生のおかげですから」


もう一度、気にしていないと告げて、エヴェンは紅茶を口に含んだ。

「……薄い」
「ごめんなさい。紅茶を淹れたことがないの。いつもリースに任せているから」
「先生、すごく強くて魔法が得意でも、料理とかは全然ですよね」
「そうね」


エヴェンの率直な言葉にリリスは苦笑したが、怒りはしない。

こうやってきちんとした評価を受けるのはうれしかった。

まるで――ずっと昔、もう過去になってしまった兄……シヤウンにからかわれているような感じがして。

口元の強張りが薄れ、リリスも味が薄い紅茶を口にした。

「貴方は、剣の腕は良くても、魔法は全然ね」
「はい」


そう言って、リリスは左手にベルを握る。

こちらも当然、先ほどまで握っていなかったものだ。

そのベルを鳴らすと、間を置かずにコンコン、と廊下に続くドアが叩かれた。

「呼びましたか、リリス先生?」
「ええ。入って頂戴、リース」


現れたのはリース。

夕食の準備中だったのか、フリルがたくさん使われた可愛らしいエプロンを身に着けている。
今年で二十歳になる彼女は、しかし以前と変わらず感情の起伏が分かりづらい無表情のまま、リリスの傍へ歩み寄る。

呼ばれてすぐに表れたリースに、エヴェンは驚かない。

どういう原理か、それともこれも魔法なのか――不思議に思うが、見慣れた光景だった。

「忙しい時にごめんなさい」
「いいえ。リリス先生からこちらの予定を気にせずに呼ばれるのには慣れていますから」


嫌味というには僅かに明るさを含んだ声音にリリスも笑みを浮かべ、机の上に一枚の手紙を置いた。

「これをTabaiに届けて頂戴。転移の魔法はこちらで用意するから……お願いね」
「食事の用意が終わってからでいいでしょうか?
キンダーが一人になるとかわいそうですから」
「急いでいるから、先に手紙を届けてもらえるかしら?」
「わかりました……エヴェン、後でキンダーに私が席を外すことを伝えてもらっていいですか?」
「ああ。夕食の準備は俺が手伝っておくよ」
「ありがとうございます」


リースは手紙を受け取ると、一礼をしてそのまま学長室を後にした。

それを目で追ってから、エヴェンもソファから立ち上がる。

「リリス様。俺は、カイオス王国に戻ります――父が、助けを求めているなら」
「ええ」


わずかの間に、覚悟は決まっていた。

もうすでにリリスを先生ではなく、カイオス王国第一王女として捉え、一礼する。

カイオス王国には光と闇の血族が存在し、王座にはその血族の男子が交互に就く決まりになっていた。

古くからのしきたりだ。

そして現カイオス王であるTabaiは光の血族であり、エヴェンはその息子。同じく光の血族の血を引く王族で――国を守る義務がある。

真面目な性格だと、リリスは思う。

真面目で愚直。

好感が持てる性格だが、きっと長生きできない……そうも、思ってしまう。

王族であるエヴェンがリリスの元に居る理由は単純だ。

五年前――Tabaiが王座に就いた際、当時のTabaiよりも民衆の支持が高かったエヴェンに王座を奪われることを恐れたTabaiから害されぬよう、リリスが保護しただけ。

父と息子。その関係は前カイオス王であるリリスの父と彼女の兄――シヤウンの関係によく似ていた。

だから、見過ごせなかった。

自分より優れた者がすぐ傍にいる。

自分より信望を集める者が同じ場内に居る。

その感情を我慢できるほど、Tabaiは王としての自覚が足らなかった。

けれど、その事情を知ってなおリリスに援助の手紙を送ってくるのだから、よほど追い詰められているという事なのだろうと予想する。

「少しは成長したのでしょうね、Tabaiも」


暗愚と決めつけて、その本質を見ていなかったのは自分なのだろうとリリスは少し反省する。

人はその性格がどのようなものでも、月日が成長させるのか。

それとも、ほとんど何も変わっていないのか。

ふとそう思ったが、どうでもいいか、とやはり切り捨てた。

リリスはもう、自分自身がカイオス王国に関われないことを知っている。

『蒼の魔女』と恐れられ、魔女として人間より一段高い位置に上ったとも表現するべきか。

人の枠から外れてしまったリリスが国の進退に関われば、自分の思い通りに事が運んでしまうことを五年前の内乱で理解していた。

戦争の経験がない小娘が、軍を率いて反乱軍と敵国を蹂躙した――数千の人間を手足のように操り、戦場を俯瞰し、最適の選択を選び続ける。

そして、それがエスタリアという世界に悪影響しか与えないということも。

個人の意思と世界の意志は異なるものだ。

リリスの願いが世界の願いではないように。

だからリリスは準備した。

この語年間。

欠片エリアに隠遁し、才能ある生徒をとり、自分の魔力を分け与えたのはこの時のため。

ただただ――三年前、自分が狂わせてしまった第三エスタリアの歴史の流れを正常に戻すために。

「それでは、食堂に行きましょうかエヴェン。ほかの皆が集まっているようですから」
「わかりました」


リリスは分け与えた魔力の存在を感知し、この欠片エリア内なら誰がどこにいるかを察する事が出来る。

その感覚のままにエヴェンを伴って食堂へ移動すると、キンダーが作った料理をミラとジェシカが並べているところだった。

他にも、調理場の方からも楽しげな笑い声が聞こえてくる。

どうやら一人で夕食の準備をしているところを見かねて、気付いた生徒達が手伝っているようだ。
静かな瞳でミラ達に視線を向ける。

いつもの柔らかな雰囲気ではない。

授業の時のような厳しい雰囲気でもない。

そんなリリスの変化を察し、手の空いていた生徒が調理場へ他の生徒達を呼びに行く。

他の場所で過ごしていた生徒達も同様だ。

そこにいつもとは違う――言葉にできない感情を抱き、十四人の生徒はリリスの前に整列した。

「まず――エヴェンがどうしてここに居るかを説明します」


十四人は黙ったまま、リリスの言葉に耳を傾ける。

それは、先ほど学長室でリリスが思ったことの復唱。

エヴェンがカイオス王国の王族であり、現国王のTabaiと同じ光の血族であること。

そのTabaiからリリスへ救援を求める手紙が届いたこと。

そして、エヴェンをTabaiの元へ向かわせること。

「貴方たちはエヴェンに協力して、カイオス王国を救いなさい――身の内の魔力を感じ、理解できれば、きっと良い経験になるはずです」


リリス自身も、無意識とはいえ、カイオス王国の内乱で魔法の技術を磨いたからか、もし次に会えるとしたらきっと見違えるように成長しているだろうという確信があった。

そして、ジェシカ達もまた、魔法を実践で使う機会を与えられ……不謹慎だが、内心が高揚するのを自覚する。

「ミラ、貴方にはこの手紙を――リースが先に行ってカイオス王と話をしているはずですが、今後のことをしたためておきました」


いつものように魔力で用意した手紙をミラに渡すと、彼女は恐る恐るその手紙を受け取った。

その時に、指先が触れる。

……ミラの感情が、リリスの中に流れ込む。

ここ最近、何をしていたのか、が。

「行きなさい――この閉ざされた世界には無い経験を積み、沢山の事を学んできなさい」


それだけを呟いて、リリスは食堂を後にした。

それが正しかったのかはわからない。

ただ、ミラの憎しみと、同じだけの愛情を感じ……そう呟く。

それがリリスの本心だった。





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